「母の日」が語りかけるもの
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2003/sha20030511.html
十一日は「母の日」。ある百貨店が行った母の日ギフト意識調査によると、贈りたいもの、もらってうれしいもので最も多かったのは、ともに花だった。
定番はカーネーション。母を亡くした米国の田舎町の少女が、母の愛に感謝する気持ちをこめてカーネーションを贈った。
心を動かされた議会が一九一四年、五月の第二日曜日を母の日と定める法律をつくる。日本では、戦後の四九年ごろから母の日が行われてきた。半世紀が過ぎた。
今年三月二十七日付の本紙朝刊家庭面の「ひろば」に、こんな投稿が載っている。
七年前、四歳の娘が、自分のお小遣いでは高いカーネーションに手が届かず、ポット入りのベルフラワーを買ってくれた。翌年からは肩たたき券、お手伝い券などのつづりを贈ってくれている。
筆者の鳥越せつ子さん(五戸町)は、その回数券をおばあさんになってから使わせてもらうことにし、毎年タンスにしまっているそうだ。鉢のベルフラワーは大きくなり、今年も楽しませてくれている、と書いている。
母に感謝したいと思いながら果たせない人もいる。北朝鮮に拉致された被害者の一人、曽我ひとみさんだ。七八年、古里の新潟県の佐渡島で、母ミヨシさんと一緒に襲われた。ミヨシさんの行方は、二十五年たった今も分からない。
七日開かれた国民大集会で、曽我さんは訴えた。「母に会えたら強く抱き合いながら、涙がかれるまで泣いていたい」。北朝鮮には元米軍兵士の夫、大学生の二人の娘が残っている。娘も今、母の曽我さんに会うことができない。
八日は、武富士弘前支店の強盗殺人・放火事件で犠牲になった五人の三回忌。故人になってしまった笹森容子さん、福井貴子さんは、一男一女の母だった。
十代後半の娘に肝臓の四分の三を提供した四十代の母が四日、京都大病院で死亡した。生体肝移植は国内で約二千三百の実施例があるが、提供手術が元で提供者が死亡したのは初めてだ。
九年前、父は重い肝臓病に苦しむ娘に肝臓の一部を提供したが、容態が悪化。母は昨年「あなたが死ぬかもしれない」と医師から告げられながら、提供を決断した。
娘は退院できたが、母の容体が悪化。今年一月、別の生体肝移植で摘出された肝臓を移植されたものの、回復しなかった。
生きている人に赤、亡くなった人には白のカーネーションを贈るとされている。武富士事件の遺児たち、父母から肝移植を受けた娘の目に、白いカーネーションはどのように映るのか。
母の字は「女」に二つのおっぱいを加えた形で、子どもを生み育てる女親の意味、と辞書にある。命を生んでくれるのが母なら、命を奪い、多くのものを破壊し尽くすのが戦争だろう。
ロバート・キャパ、澤田教一、酒井淑夫写真展「三人が見た戦場」が十一日まで、青森市の県立郷土館で開かれている。三人は、遠くからでなく、被写体のすぐそばに近づいてシャッターを押した。キャパは地雷を踏み、澤田は狙撃されて帰らぬ人になった。
ベトナム軍の侵攻を逃れたカンボジア難民を間近で撮った酒井の写真の中に、乳首にすいつく乳児を抱く母の不安げな姿があった。
ピュリツアー賞などを受けた澤田の「安全への逃避」は、米軍の銃撃から逃れ、必死に河を渡る二組の母子をとらえている。
撮影されたベトナムの村を二十年後に訪れた人の報告によると、左側に写っている母は、すっかりおばあさんになっていた。幼子を抱く右側の母も運良く生き残れたが、戦争で衛生状態が悪くなったため、お産で亡くなったそうだ。
母と戦争は、対極にある。