毎年5月15日、五穀豊穣を祈願する京都の上加茂(かみがも)神社と、下鴨神社で行われる祭り。
起源は1400年前からと、京都三大祭りの中でも最も古い。王朝絵巻を再現した優美な行列が約8kmにわたって歩く。
賀茂なすの苗供え 豊作祈願 上賀茂神社で生産者ら
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080316-00000023-kyt-l26
京野菜のひとつ、賀茂なすの豊作を祈る祈願祭が16日、京都市北区の上賀茂神社であった。生産者が賀茂なすの苗を本殿に供え、収穫の始まる5月に向けて、順調な生育と豊作を祈った。
ふっくらと丸い形をした賀茂なすは上賀茂地域が元の産地。昨秋に採種して苗を育て、ビニール栽培するこの時期に、JA京都市の上賀茂特産野菜研究会が毎年祈願している。
祈願祭は本殿で行われ、届いたばかりの苗を神前に供えて生産者20人が収穫の無事を祈った。研究会の藤井秀昭会長(50)は「原種に近い賀茂なすを栽培している。
生産者の技術は高いが、出来栄えが天候に左右されやすいので神さまに祈願した。葵祭にはいい賀茂なすを上賀茂神社に奉納したい」と話した。
賀茂なすは直径11?12センチ、重さ350?400グラムにまで育つ。5月半ばから8月半ばまでに収穫される。
カルタ大会:左京の市原野小児童、「フタバアオイ」題材に??上賀茂神社 /京都
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080312-00000199-mailo-l26
思い思いに63枚作る
葵祭のシンボル・フタバアオイを育てている左京区の市立市原野小学校(神村眞知子校長)の3、4年生119人が11日、北区の上賀茂神社で自作の「双葉葵カルタ」を使ったカルタ大会に参加した。
同神社や地域住民、教育機関などが協力し、フタバアオイの森林再生を図る「葵プロジェクト」の一環。昨年4月に同神社で葵の株分けをして同校で育ててきた。
また、同11月からはプロジェクトに参加している西岡正子・佛教大教育学部教授のゼミ生が、フタバアオイの植生や歴史を教えた。
カルタは1年間の授業のまとめとして作成。紙製(縦54センチ、横38センチ)で「みつけたよ フタバアオイの 続く森」など、児童らが思い思いにフタバアオイについて考えた63枚が完成した。
この日は、カルタを神社境内の芝生に並べた後、読み札が読み上げられ、児童らは歓声を上げながら走って取り札に手を伸ばしていた。
参加した4年生の森本ひなのさん(10)は「カルタの言葉を考えるのは難しかったけど、今日は楽しかった」と笑顔で話していた。【椋田佳代】
【関西てくてく歩き隊】仁和寺?石清水八幡宮 徒然草の一節再現
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080229-00000126-san-ent
青空に映える五重塔/兼好の祝福...節目節目で雪
てくてく隊員は先月、通勤電車内で吉田兼好(1283?1350)の名著「徒然草」を読んでいて思い立った。仁和寺(京都市右京区)から、男山の山上に鎮座する石清水八幡宮(京都府八幡市)まで参詣してみよう?。
仁和寺の僧が、まだ行ったことのない石清水八幡宮を参詣しようとして男山のふもとにある社寺を本宮と勘違いし、山上の本宮には行かずに帰ってきたという、本の一節の再現である。兼好は「簡単なことでも案内者は必要」と戒めている。往復40キロ超。決行は今月16日だ。案内なしでいこう!
東の空が明るくなってきた午前6時40分、仁和寺の二王門前に立つ。屋根にはうっすらと雪が積もっていた。僧がどんなルートを歩いたかは不明だが、とりあえず平安京の玄関・東寺を目指し、仁和寺街道から千本通、大宮通を南下した。
大極殿跡や聚楽第ゆかりの出世稲荷(いなり)などを経て1時間20分で東寺を通過した。五重塔が青空に映える。
名神・京都南インター、城南宮、桂川の堤防沿いへと進むと、石清水八幡宮のある男山がしだいに近づいてくるのを実感できた。伏見区の納所(のうそ)交差点から一般道に入り、御幸橋で淀川、木津川を渡り、午前10時15分、
八幡宮一ノ鳥居前に到着した。22キロで3時間35分。毎日10キロ以上歩いている隊員にとってはまだまだ余裕だ。それにしても僧の健脚ぶりはいかほどだったのか。八幡宮によると、「男山四十八坊」と呼ばれた宿泊施設が境内にあったらしいので、宿泊したとも考えられる。
僧は「年寄る」とされているが、かつて隊員が洛西方面を歩いたさい、こんな経験がある。60代とみられる農作業服姿の女性2人が会話をしながら普通に歩いていく。それが隊員よりかなり速かった。毎日、体を動かしている人にとって年齢は関係ないのだ。
僧が本宮と間違って参詣した極楽寺と高良社に向かう。黒い雲が山を覆い、雪が降ってきた。極楽寺は現存していないが、跡に建つ頓宮は本宮と間違っても仕方ないほどの広さのうえ、それ相応の規模の社殿がある。
高良社は小さな社殿が残るのみだった。徒然草では、ここで僧は山に上る人を見ながらも仁和寺に帰ってしまう。
今はケーブルカーもあるが、参道を登ることにした。標高約140メートル。四十八坊の存在を思わせる石垣をあちこちに見ながら約20分で本宮に到着した。参拝後、山をおりるとそれまで降っていた雪もやんだ。
名物の走井餅を買い、昼食を済ませて午前11時50分、帰途につく。手提げ袋を片手にした長距離てくてくは初めてだ。
桂川、天神川など河川沿いの自転車・歩行者の専用道などを北上していく。晴れたと思ったらまた雪、とめまぐるしく天候が変わる。仁和寺まで約2キロと迫ったとき雪は激しくなった。足取りは少し鈍ったが、余力は十分だ。
福王子神社前を右折すると仁和寺の土塀が目に入り、午後3時10分に到着した。金堂に続き兼好ゆかりの長泉寺=通常非公開=前で手を合わせて無事到着を報告した。44キロ、62239歩。隊員にとっては日帰り可能なコースだった。
今回、晴天の滑り出しだったが、ルートの節目、節目で雪。徒然草の僧の励ましか、それとも兼好の祝福だったのか。(和)
≪ガイドブック≫
【石清水八幡宮】日本三大八幡宮のひとつ。大安寺の僧、行教が大分・宇佐八幡宮に参詣したさいに神託を受け、貞観2(860)年、清和天皇の命の下、創建された。王城守護の神として朝廷から手厚い保護を受けたほか、源氏が氏神として信仰し、源頼義の子、義家が同社で元服して「八幡太郎」と称した。石清水祭は三勅使祭として賀茂祭(葵祭)、春日祭と並び称される。鳥羽伏見の戦いで多くの社殿が焼失し、明治時代の神仏分離で仏教色が一掃された。
【仁和寺】真言宗御室派総本山。宇多天皇が寺の建設を進めていた父、光孝天皇の遺志を引き継ぎ、仁和4(888)年に完成した。宇多上皇が出家後、同寺に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため「御室御所」とも呼ばれる。皇室関係者が歴代の門跡を務め、境内は御所風のたたずまいを残す。金堂は桃山期の御所・紫宸殿を移築。阿弥陀三尊像、孔雀明王像、宝相華蒔絵宝珠箱など多数の文化財を所蔵している。世界文化遺産。宇多上皇に授戒した僧、益信(やくしん)は行教の弟である。
「母の日」が語りかけるもの
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2003/sha20030511.html
十一日は「母の日」。ある百貨店が行った母の日ギフト意識調査によると、贈りたいもの、もらってうれしいもので最も多かったのは、ともに花だった。
定番はカーネーション。母を亡くした米国の田舎町の少女が、母の愛に感謝する気持ちをこめてカーネーションを贈った。
心を動かされた議会が一九一四年、五月の第二日曜日を母の日と定める法律をつくる。日本では、戦後の四九年ごろから母の日が行われてきた。半世紀が過ぎた。
今年三月二十七日付の本紙朝刊家庭面の「ひろば」に、こんな投稿が載っている。
七年前、四歳の娘が、自分のお小遣いでは高いカーネーションに手が届かず、ポット入りのベルフラワーを買ってくれた。翌年からは肩たたき券、お手伝い券などのつづりを贈ってくれている。
筆者の鳥越せつ子さん(五戸町)は、その回数券をおばあさんになってから使わせてもらうことにし、毎年タンスにしまっているそうだ。鉢のベルフラワーは大きくなり、今年も楽しませてくれている、と書いている。
母に感謝したいと思いながら果たせない人もいる。北朝鮮に拉致された被害者の一人、曽我ひとみさんだ。七八年、古里の新潟県の佐渡島で、母ミヨシさんと一緒に襲われた。ミヨシさんの行方は、二十五年たった今も分からない。
七日開かれた国民大集会で、曽我さんは訴えた。「母に会えたら強く抱き合いながら、涙がかれるまで泣いていたい」。北朝鮮には元米軍兵士の夫、大学生の二人の娘が残っている。娘も今、母の曽我さんに会うことができない。
八日は、武富士弘前支店の強盗殺人・放火事件で犠牲になった五人の三回忌。故人になってしまった笹森容子さん、福井貴子さんは、一男一女の母だった。
十代後半の娘に肝臓の四分の三を提供した四十代の母が四日、京都大病院で死亡した。生体肝移植は国内で約二千三百の実施例があるが、提供手術が元で提供者が死亡したのは初めてだ。
九年前、父は重い肝臓病に苦しむ娘に肝臓の一部を提供したが、容態が悪化。母は昨年「あなたが死ぬかもしれない」と医師から告げられながら、提供を決断した。
娘は退院できたが、母の容体が悪化。今年一月、別の生体肝移植で摘出された肝臓を移植されたものの、回復しなかった。
生きている人に赤、亡くなった人には白のカーネーションを贈るとされている。武富士事件の遺児たち、父母から肝移植を受けた娘の目に、白いカーネーションはどのように映るのか。
母の字は「女」に二つのおっぱいを加えた形で、子どもを生み育てる女親の意味、と辞書にある。命を生んでくれるのが母なら、命を奪い、多くのものを破壊し尽くすのが戦争だろう。
ロバート・キャパ、澤田教一、酒井淑夫写真展「三人が見た戦場」が十一日まで、青森市の県立郷土館で開かれている。三人は、遠くからでなく、被写体のすぐそばに近づいてシャッターを押した。キャパは地雷を踏み、澤田は狙撃されて帰らぬ人になった。
ベトナム軍の侵攻を逃れたカンボジア難民を間近で撮った酒井の写真の中に、乳首にすいつく乳児を抱く母の不安げな姿があった。
ピュリツアー賞などを受けた澤田の「安全への逃避」は、米軍の銃撃から逃れ、必死に河を渡る二組の母子をとらえている。
撮影されたベトナムの村を二十年後に訪れた人の報告によると、左側に写っている母は、すっかりおばあさんになっていた。幼子を抱く右側の母も運良く生き残れたが、戦争で衛生状態が悪くなったため、お産で亡くなったそうだ。
母と戦争は、対極にある。